2009年10月09日

教育は暴力か?!

台風一過で、空がきれいですね。

嵐の中、本を読んでて、久しぶりに頭の中がグワングワンしました。

過激なタイトルでスイマセン( ´∀`)つ


☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;

ヘレン・ケラーについて…

ヘレンは生後1歳9カ月で
「見えない」「聞こえない」→「しゃべれない」状態になり
そのままの状態で思春期を迎えました。

ヘレンにとっては、生物として、自分が感知できるものが、全て。
他者と言葉は通じないし、共通のルールもない。
学ぶことを知らず、自分が知らない、ということも知らないし
知ることの意味や価値も分からない。

サリヴァン先生は、そんなヘレンを「教育」した。

どうやって?(゚Д゚≡゚д゚)



サリヴァン先生は、まず、ものの食べ方から始めました。
食事の際に、

テーブルにつくこと(椅子に座ること)
ナプキンをすること
スプーンをつかうこと

これらを強制した。

他の人の食べ方を見たこともないヘレンにとって
このような、文化的な、食事の仕方は

知らないコト、かつ、不必要で、不自然なコト。

ヘレンは手探りで触れたもの、味やにおいでしか
外部を認識できない。
食事は手に触れた、食べられるものを食べるしかない。

そうやって、生きてきたヘレンの生活様式を否定することは
ヘレンそのものを否定すること、ヘレンとの敵対。

ヘレンにとって、初めての敵対的な外部が登場した。
ヘレンは全力で抵抗するが、最終的には屈服する。


近代的個人を形成する「啓蒙」としての教育は、
その個体(子ども)が望もうと望むまいと、
彼(彼女)を外部にある文化や規則の世界に引き入れなければならない。

ヘレンとサリヴァン先生の「教える−学ぶ」の関係は
教える側(権威者・サリヴァン)による、
一方的な文化(食事作法)の強制(暴力)から始まっている。

最初のヘレンには、学ぶ側としての
自己も存在していなかった(外部がなかったので、内部もない。認識できていない)

そこで、
サリヴァン先生はヘレンと「教える−学ぶ」の関係を成立させるために
両者の上下関係を認めさせるために、
強者による弱者の支配(強制・暴力)を行った。

☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;

ヘレン・ケラーとサリヴァン先生の間に起こったコトは
普通の場合、人は、生まれてから、
多くの時間と場所で、その生活を通じて緩やかに行われている。

ひと(子ども)が、すでに、学ぼうとするものとして存在する、と考えるのではなく
学ぼうとするひと(子ども)も、
つねに、すでに、教育によって「つくられている」ということに
無頓着になってはいけない。

☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;

ど〜ですか。頭がグワングワンしませんでした?(;´Д`)

「暴力」という表現が極端で過激に感じたのですが、
ま〜そう言われたら、そうかな、と。

赤ちゃんは「弱者」で、親は「強者」。
躾は「強制」であり、「支配」か…

ん〜

本はその後、
色々な人の
色々な教育のとらえ方を批判的に論じています。

読み進めていくごとに、ますます、頭の中がグワングワンしてしまいました。

「啓蒙」としての教育。
「商取引」としての教育。
「文化」としての教育。
「学力」としての教育。
「真理」としての教育。などなど…

子どもと関わっていると
こういう本は、考える要素がたくさんあって疲れます( -д-)ノ

参考までに↓この本です

間違いだらけの教育論 (光文社新書)間違いだらけの教育論 (光文社新書)
著者:諏訪哲二
販売元:光文社
発売日:2009-08-18
おすすめ度:3.0
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読めば頭グワングワンすること請け合いです!(☆゚∀゚)

maruhashikouta at 08:33│Comments(1)TrackBack(0) 教育 | 本の紹介

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この記事へのコメント

1. Posted by maruhashikouta   2009年10月10日 01:21
コメントありがとう!

卒論を書いた時以来の、頭グワングワンする時間を過ごしました。

子どもと接してる毎日を過ごすと、
こんな本が、頭グワングワンいわせてくれますわ〜

これが,全てではないし、自分なりに咀嚼して
子どもたちと接しなければと、思ってます。

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